宝満山登山千回達成記念(平成13年)
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平成13年7月に、剛さんは、福岡県にある宝満山に1000回登山しました。
Subject: カガタネットの登山記事について
父です。
先日の帰郷、お疲れさんでした。お土産を頂き、また、凱君の誕生祝いまで気を使わせて恐縮です。
さて、標記ネットに掲載する「宝満山11千回登山」の原稿が出来たので、送信します。1日遅れの送信となりました。書いた後の感想は、文章が長すぎたと思っておりますが・・。原稿は印刷していないので、誤字・脱漏があれば、勝手に校正してくだ さい。
なお、登山記録(90年~02年)を添付ファイルしております。
また、写真は弘のCD保存の中から適当なものを選んでください。
以下が全文です
題 「宝満山1千回登山の回顧」
◇故郷
福岡県南部に広がる肥沃な穀倉地帯、筑後平野。小生はその筑後地方の山川町で、農家の三男として生まれ、育った。山川町は熊本との県境にあり、北には一級河川の矢部川が流れる瀬高町、またその北には水郷柳川市がある。山紫水明の地山川町の面積 は26平方キロメートル余。人口は約6千人である。「山川みかん」のブランドで知 られているように柑橘栽培が盛んである。初秋には約700ヘクタールの面積にみか んが実り、山一面が黄色に染まる。山川という地名のとおり、自然が豊かで温暖な気 候である。町内の東側には郡内最高峰のお牧山(標高405m)が泰然とそびえてい る。町民が誇りとするお牧山は、阿蘇の外輪山や雲仙普賢岳まで遠望でき、また有明 海に沈む太陽を眺めるのは神秘的である。このお牧山は中学校の校歌にもうたわれ、 卒業遠足には必ず登った山である。近年、山頂付近にはキャンプ場ができており、四 季を通じて訪れる人々は多い。11月初旬に行なわれる町内最大イベント「山川こい こいまつり」にはお牧山登山があり、約2千人の老若男女が山頂を目指す。
小生が通った学校は山の上小学校、山川中学校、山門高校である。不思議と通う学校 名には頭に「山」が付いていた。山との縁はこの時から始まっている。
◇目覚め
九州本土の屋根といわれる九重連山には高岳、九住山、大船山など1700メートル を越える山が数座ある。この九重連山を目指して九州はもとより遠く関東、関西から 登山者が集まる。その中の一つ久住山(標高1782m)は、深田久弥の名著「日本百名山」でも紹介された歴史と品格のある山で、初めて登る者にとって垂涎の山である。
1965年ごろ、近所の人から久住山に登らないかと誘いを受けた。それまではお牧 山に学校行事で登った程度であったが、標高が1700メートル級の登山は初めてで あった。当時を振り返ると、ナイロン製の登山靴を履きヤッケを着て、キスリングを 背負って登った。雨降りにはリュックが肩にくい込み痛くなる経験をした。交通手段 はもっぱら国鉄列車とバス乗り継ぎである。時刻表で調べ片道4~5時間かけて出か けていた。車中での会話や飲食は、時間を忘れさせる楽しみがあった。九住登山は、 今では車で日帰り登山が可能であるが当時は必ずキャンプ場で一泊した。ローカル線 では列車の回数が少ないからである。
初めての九住登山は6月下旬、梅雨の真っ最中の季節であった。キャンプ場は登山口 の長者原にあった。着いた日はそのまま持参のテントで寝た。翌朝、空を仰いだとこ ろ鉛色の雲に覆われていた。それでも予定通り登山の準備をして、いざ出かける頃に なってサーと風が吹き、太陽が雲間から射し込んだ。一瞬ではあるが山の稜線がはっ きりと見えたのである。刻々と変化する自然現象を初体験し感動した。この日は幸い にも雨は降らず山頂まで登ることができた。その時の感動が山登りを本格的にはじめ る原点となった。テントから見えた一瞬の晴れ間は今でも脳裏に鮮明に焼き付いている。
その後、何回となくこの山を訪ねた。山は平地と違い気候の変化は激しい。時として 悪い天候に巡り合ったこともしばしばである。しかし、初登山の体験を思い出し、一 瞬の晴れ間を期待しつつ登り続けたのである。
◇出合い
月に一回ほどのペースで九州各地の山に登り続けていたところ、1970年に現在の 筑紫野市へ小さな家を造った。拙宅の窓越しからは、近くの宝満山や古処山、九千部 山などが遠望できる。登山するにはロケーションは抜群に良い。中でも宝満山(標高 830m)は家から一番近いのと、登山口からの標高差が600メートル以上ある登 り甲斐いのあるのが魅力だ。この山は、奈良から平安時代にかけては山伏の修験道場 であった。霊山らしく彼方此方に史跡が点在している。五所秘水と言われる井戸跡も 在り、宿坊が25ヵ所あったと歴史書にはある。四季を通じて登山者が絶えない。
この山へ本格的に兆戦する契機となったのは、1989年の忘年会の宴席である。来 年の抱負を語りあう際に無謀にも「宝満登山を年50回以上」と宣言したのが運のつ きであった。
公言通り、1990年の正月から本格的に登山開始。始めは山頂に辿り着くのが本当 にきつかった。登り始めて数年経ったころ、山頂で記念写真を撮るから一緒に写ろう と声をかけられた。長友武男さんという方で、手に巻物を持っていた。長友さんは当 時70才代の後半で、その紙には日付け、氏名・年齢、登山回数が書かれていた。巻 物には宝満登山650回と書かれていた。居合わせた登山者と一緒に写真を撮った。 後で分ったことであるが、長友さんは20年以上前から登り始め、1千回登山を目指 していたのであった。
◇宝満山登山1千回達成
小生がこの山に本格的に登り始めて間もなく、岩に掲げられた銘板が目にとまった。 昭和44年に掲げられた碑文には”山は登るのではなく、奉仕の念を持って登らせて貰 うんだ”と記されている。初代自然守護会会長・宮原明氏の言葉であり登山に対する信 念が書かれている。宮原氏はこの山に1020回登り続け、享年44歳の若さで他界 されたのである。小生は、宮原氏の登山哲学を学びながらも、よくも1千回登ったも のだ、と驚きながら登っていた。
始めの頃は年50回を目標にしていたので、専ら休日に登山することに決めていた。 登山者は見知らぬ人ばかりで、簡単な挨拶程度であった。2~3年経ったころ、同じ 時間帯に登る人と世間話しをするようになり、仲間が次第に増えていった。数年経っ たころにはグループが形成され、他の山にも登るようになった。福岡県内の最高峰・ 英彦山(1200m)や背振山(1060m)など身近な山を手始めにグループ登山 を始めた。
7年余り経ったころ、知人の川原健氏が1千回登山の祝賀会をする旨の通知を頂い た。川原氏は登り始めて20年で達成したのである。川原氏は挨拶の中で、次ぎの2 千回に挑戦する旨の意思を語られた。同年代の川原氏が次ぎの目標を持っているのに 驚き、かつ頼もしいと思った。この後も何人かが1千回や2千回達成の祝賀会を催さ れた。その都度祝賀会に参加する機会を得たが、その過程で小生も1千回登山をやっ てみようと密かに決意した。目標を決めたら登山回数が加速した。土曜・日曜日の殆 どを登山に費やした。家の用事は空いた時間を有効に使うことにし、生活パターンを 登山モードに変えたのである。家内も最初は嫌がったが、終わり頃には諦めて協力し てくれた。
10年目に900回を越えた頃、1千回登山の記念祝賀が気にかかるようになった。 自己管理をしている手前、誰に話しを持ちかけ、どのような行事を行なうのか等々、 心配になってきた。達成日がほぼ固まった時点で、山仲間に7月20日に実行したい と伝えた。苦節11年半を掛けて悲願の宝満山登山1千回が現実となったのである。
◇祝賀会
祝賀会は宝満山頂から少し下りた宝満山キャンプセンターで行なった。梅雨明け10 日は晴天の言い伝えの通り、7月20日は梅雨明けの快晴となった。
奇遇ではあるが、仲間の松尾氏もこの日が1千回となり合同の祝賀会をすることにな った。大勢の山仲間が集まってくれた。
小生の家族や親戚の者も祝賀登山に付き合ってくれた。家の前で記念撮影をした後、 車で登山口に行く。仲間と登山口で落ち合い、ビールや食べ物などを小分けして担ぎ あげた。特にビールは樽ビールを用意したのでガスボンベも同時に担ぎあげた。山頂 にはかまど神社の上宮がありその前で、古老の谷川氏が祝詞をあげてくれた。神聖な 儀式となった。祝詞を聞きながら1千回登山を振りかえり感無量であった。1千回登 山記念と書いた横断幕を掲げて記念撮影をした。キャンプ場では生ビールで乾杯した 後、友人が持ち寄った料理に舌鼓を打った。たまたま通り遭わせた登山者も輪の中に 入り、登山話しに花を咲かせた。思い起こせば、小生にとって1千回登山はただの夢 物語と思っていたのが「チリも積れば山となる」の喩え通り、正夢として実現したの である。しかも大勢の人々からの祝福を受けながら・・。用意した記念タオルを参加 した仲間や、山でお世話になった方々へ感謝の意を込めて配った。
この日は山伏の峰入りがあっていて、数十人がほら貝を吹きながら修行していた。山 伏と出遭った際、親戚の者が今日の記念登山のことを話し、祝福のほら貝を吹いてほ しいと請うたところ快く応じてもらった。山一面に轟くほどのほら貝の音が響き渡っ た。今でも心にその力強い音色が残っている。
下山後は風呂で汗を流し家族、親戚の者と料理屋で小宴を開いた。ビールの喉越しは 格別の美味さであった。至福の一日であった。
◇あとがき
振り返ると、宝満山を目指して本格的に登り始めたのは1990年である。当時の日 本の経済は、バブル経済が崩壊し低成長期に入っていた時代であった。
その様な時代に、一念発起してこの山に挑戦しようと始めたのは、五十代に手の届く 年齢であった。爾来、登り続けて11年半の歳月を掛け、念願の1千回登山が成就し たのである。大袈裟に表現するなら20世紀から21世紀にかけて達成したのであ る。この間、自身の健康に気をつけたのは勿論ではあるが、家族の協力なくしては到 底出来なかったであろう。11年余の間、我侭を言いながら休日には山登りに専念し たのである。家内には大変苦労をかけたが、就中、内助の功があったらこそ達成でき たと感謝している。
処で、飽きずに同じ山に1千回以上も登ったものだと小生も呆れている。それほどま でにこの山は魅力がある。山伏が千日回峰を成就し「阿邪利」となることを新聞で読 んだことがある。千日回峰は毎日数十キロの山道を駆け巡る厳しい修行である。これ と登山とを比べるのは不謹慎かもしれないが、目的を達成した心境は同じではないか と思う。
人との出合いも楽しかった。多士済済の人が登っている。職業も自営業や経営者、会 社員、公務員、医者など様々であり、まさに異業種交流の場でもある。次ぎに登る山 の情報、世の中の動き、動植物の名前など、多くの人に教わった。また、登り方に特 徴のある人とも出会った。植物図鑑のように詳しい人、1年間で300回以上登る山 キチ、海外登山を目指す人、芸術写真を撮る人、漢詩を詠む人、自然食を作る達人な どなど。アウトドア指向の登山者に共通することは前向きな生活態度、本音で語り合 えることではないだろうか。その山仲間との語らいは、明日の活力の涵養にもなる。 今から思うと、登山を始めて良かったと思っている。
将棋界の鬼才・升田幸三が残した名言に「たどりきて未だ山麓」というのがある。3 冠王に成っても現状に満足いない意志を表したものである。
小生も気力・体力の続く限り、次ぎの目標に向かって山に登り続けたいと思っている。
参考資料
暦年登山記録(1990年~2002年)
昨年7月の宝満山登山1000回達成記念に関し、山仲間に出した礼状を探し出しました。
その全文は下記の通りです。
記
様
御 礼
宝満山頂にはヤマユリが真夏の太陽を浴びながら、天空に向けて段階的に咲き始めており登山者に爽やかな涼をあたえておりますが、貴方様におかれましては益々ご健勝 のこととお慶び申し上げます。
さて、去る7月20日に行いました「宝満山登山1000回達成」祝賀会には、ご多忙の中にもかかわらずご参加下さいまして、誠にありがとうございました。この日は幸いにも梅雨明けの快晴に恵まれ、また、大勢の方々から祝福のお言葉をいただ き、小生にとって生涯忘れられない一日となりました。
このような慶事が出来ましたのも、ひとえに貴方様を始め登山仲間の温かいご支援、ご協力の賜物と衷心より厚く御礼申しあげる次第であります。
振り返りますと、小生は1990年から宝満登山を始めましたが、そのきっかけは前年の忘年会の席で、「来年から宝満登山を年間50回以上」、と酒の勢いで宣言したことに始まります。爾来、休日を利用して宝満山に足を運びましたところ、11年半の歳月を経て漸く念願の千回登山が達成したのであります。大袈裟な表現かもしれませんが「世紀を跨ぐ登山」に掛けたチャレンジが、ここに結実したのであります。
この達成には、多くの方々からの激励に支えられようやく辿りつくことが出来ました。また、先達の何千回記念登山にも参加させてもらい勇気づけられたことも事実であります。
11年余の間には台風や大雨、降雪などの厳しい気象条件にも何回となく遭いましたが、平常は穏やかな山なので自然の四季を味わいながら山登りができました。
「たどりきて 未だ山麓」と言ったのはプロ棋士の鬼才・升田幸三ですが、小生もこの精神で新たなステージに向けて再びチャレンジしたいと思っております。気持ちだ けはすでに助走に入っておりますが・・。
末筆になりますが、酷暑の砌、ご自愛のほどをお祈り申しあげます。
先ずは御礼まで。
早々
平成13年7月盛夏
加 賀 田 剛







